名月のもとで思う

名月や池をめぐりて夜もすがら  芭蕉
池をめぐるというのだから、月を見ているのではなく、月がうつっている池を見ている、さらには月の照らす世界を見ているということであろう。夜もすがらというのだから、一晩中月をながめ、眺めあかすということであろう。私も以前は月をながめあかす人であったが、今やかなり「夷狄にひとし」くなってきている。
月見とは直接月を見るのではないということを、成就院「月の庭」から教わった。その庭は「月の庭」という名を持つのに月は見えないのである。月を見るのではなく月影を見る。月に照らされた世界を見る。今でも、ボランティアで泊まった夜の月の庭を、あの灯籠を、借景の山とのなだらかな接続を、思い出せる。月光に照らされて変貌した世界の様相をなんと表現したらいいのか、私はまだ言い得たことがない。それができれば詩人の本望だろう。

月明かりの庭を見ることは「月を」見るのではないということから、ある飛躍が生起しうる。月が見ているということである。月が見ている世界を見ているという主体の合一が起こる時、私という主体などなく、世界だけが止めどなく美しい。
一晩中手ぶらで月と過ごせる者は豊かである。月自体が豊かであるといえるが、その人の心が豊か・・・いやいや、そんな抽象的な言い方はやめよう。月を受け入れることができるほどの受容性が高い人である。あるいは月の豊かさに触れることのできる襞があるということである。こちらの内容が豊かであるから、何も持たずに豊かな時を過ごすことができるのだ。ゲームやスマホがあれば一晩中過ごせる人は多いであろう。機械が進歩すると人間が空虚になる。その機械がなければ過ごせないからだ。つまり豊かさのありかは機械なのである。

月であれゲームであれ、自分ではないものを受け入れて過ごすんだから、同じことぢゃない?否。無限大に否。人間の作ったものをであるか否かである。人間の作り物を受け入れてもその制作者の思う壺である。人間世界に終始している。月は人間の作ったものではないから計り知れない。人間世界を超えた別天地を体に宿すのである。そして「思う壺」がない。月は無我である。