阿弥陀仏信仰とARBあるいは苦しいときの弥陀だのみ

浄土真宗という宗教は親鸞を教祖と仰ぐ教団である。その宗教は修行をしない。あえて言うなら、法話を聞くことが修行である。そして法話を聞くことが一番大切なことだとする宗教である。なので、あちこちで法話を聞く機会がある。
講師は当然親鸞阿弥陀仏についての話をするのである。布教使と呼ばれるある種のトレーニングを積んだ人が話をすることが多い。
しかし、聞いてていたたまれなくなって体をよじらせて我慢することも少なくない。小中学校のPTAの人権講演会のような「癒やし系」べったりの話に体から膿が出るかのようで発狂しそうになる、ってとこまではいかないけど、それに近いものは感じる。親鸞様ありがとうとかいいつつあたかも小さな小さな服を親鸞に着せて立派な姿でしょうなどと言っているかのようである。窮屈で仕方ない。
浄土真宗という宗派ではスタンダードな話なんだろうけど、それは親鸞の話ではない。そんなお行儀のよい浄土真宗親鸞は入れない。
親鸞聖人に申し訳ない話が多い。袈裟着て寺で法話と称して世間話する坊さんの話は聞くに堪えない。耐えかねて腹が立つ。「いかり、はらだち」である。好き嫌い、腹立は煩悩のなせるわざである。このたかぶった気持ちは気を静めようったって静まらない。そんなときは気安く阿弥陀さんをよぶ。なんまんだぶ。怒りはしずまらない。いかりと一緒にあみださんがいてくれる。なんまんだぶなんまんだぶ。いかりは阿弥陀さんにそめぬかれて、阿弥陀さんのなかでのいかりとなる。永遠の光が耳からも入り口からも鼻からも出入してくださる。聞くに堪えなくなると阿弥陀さんの声だけ聞いとくこともある。たまーに、なんまんだぶなんまんだぶの声と一つに話が展開し、大きく転がりだす法話がある。そういう時は、親鸞に深く忠実である話の場合が多い。
80年代初頭にライブハウスに入り浸っていた世代として聞いていたのはARBルースターズ。この年末大掃除をしながら中学生の時に聞いていた頃の曲を聞いていたが、そういうころの影響は大きいと思う、とその頃からの友人に書いたら、返事に曰く、「あの頃のは最高ですよ。国鉄服で日本語カバー、歌舞伎メイクのロマンチスト、どこがモッズ?な人たち。肥えた大江も、禿げた凌も、チンポは出しても禿げたら帽子かぶるミチロウも最高。今の町蔵は嫌いだけど。
なんか今は情報あり過ぎで、みんな最初からレベル高すぎるし危険度0。アイドルだってパンクだったりメタルだったり。フゥ〜」。たしかに!危険度ゼロ。
そうなのである。浄土真宗の定番は、予定不調和(誤植にあらず)で、危なげがない。危なげのないものは根本的に危なげなものを救いえない。阿弥陀様は救いますと言うが疑わしい。阿弥陀様は疑い得ないが浄土真宗の僧侶は疑わしい。おれはキュウリを生でかぶりつきたいのだ。マヨネーズべたべたつけてマヨネーズなめさせようとするのはやめてくれ。マヨネーズの「おあじわい」なのに、きゅうりはありがたいですねというわけのわからないちぐはぐ加減は、いうなれば空振りホームランだ。