友達に悩むすべての人へーー重松清「きみの友だち」を読んで!

              きみの友だち (新潮文庫)
 友達って? 「みんな」って言うけどみんなって何?誰? そんなふうに考えちゃって悩んでる人、そんな風に自覚はしてないけどそんな事態に見舞われてる人、友達関係に苦しんでる人、いじめられて苦しんでる人、こういったひとたちに手渡したい本です。すべての学校の先生にも読んでほしい。ぼくも、これらの対象者の一人として、読んでよかった。
 ぼくは「みんな」を疑っている。「みんな」はこの国では神様の位置にあり、その神様をまつる日本人という宗教を「日本教」と呼んでいる(もとは『イザヤベンダサン『日本人とユダヤ人』の言葉)。その重要な教義は「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。
幼稚園業界の書き物にも違和感を持っているが代替案を出せていない。たとえば「友達の存在に気づくようになる」というのは、「自分中心だったこどもが周囲に意識が行くようになる」の意味です。周りにいたこどもが関わりをとおして友達になるのです。当たり前ですが。でも、園児のことを「お友だち」とよぶ奇妙な風習があるのです。みんな友だちというある種の理想の言語的慣習。
 あと、私たち親友だよねというのは気持ち悪いし嘘だと思う。親友という関係は世の中にある。それはとてもとても大切な関係だから軽々しく実現はしません。親友という言葉が消えたとき親友になります。
 こんな事を色々ぼくも思うのですが、多角的に、たくさんのパースペクティヴから友達というものを照射するこの本はたいへんリアルで優れています。小説家って人種の頭は一体どうなってるんだろうと思います。そしてその心の、「バーバー変身」のようなあり方も。
 泣いていいときに泣いてないなあと思うことがよくあった。大人の男は人前でなんて泣かないのさ、という理由と、忙しくて泣くことが許されない状況にあるという理由。泣くタイミングを逃すと、後にそれを持ってきたら泣けるというものでもない。どちらもしょうもない理由。
 一方で、泣くなんてことはどってことないことだと思ってるのも事実。ひとが「涙が出ました」という言葉で何か多くのことを伝えようとする、むしろもう決定的なことなんだと言わんばかりの語り口調をする、それには飽いている。どうってことない、だけど、いや、だからこそどんどん泣けばいいと思う。
そう思ってるせいか、ぼく自身だいぶ人前で平気で泣くようになったと思う。映画見てぼろぼろ無くし、親しい人の通夜などに行くとかっこつけずにあられもなく泣き濡れたりする。もちろん全解除というわけには行かない。あたりに人がいるのといないのとは意識しなくたってちがうものだ。そりゃいない方が心置きなく泣ける。インフルエンザにかかって隔離されたおかげで号泣することができた。
書評でも本の内容紹介でもないおしゃべりはいいかげんやめますが、娘の愛読書を読めてよかった。彼女はかなりの重松ファンです。いくつも、何度も読んでる。いい本よんでるなあ。いいものに巡り会ってるなあ。「きみの友だち」は映画化もされていて、これは映像観る前に読んどこと思ったのですが、読んだら観たくなくなりました。