「全日本尊いいのちに感謝教」によって仏教は死んだ

創唱宗教自然宗教という概念が今でも通用するのかどうかは、宗教学の研究状況を知らない私には分からないが、その装置を借りて話す。
自然宗教は、人が生きていると「自然に」出てくるもの、親を敬うとか先祖を崇拝するとかいうものを内容とするような宗教的な感情や社会的な儀礼などのことである。ムハンマドを知らなくても、仏陀なんて聞いたことなくても、社会の中で「自然に」身につき執り行われるものである。
今時で言うと、自分の親は二人でその親の親を20代前にさかのぼると何億もの親がいて、そのどの一人が欠けても自分の命はなくて、それを「いのちのつながり」とか「いのちのバトン」とかいって、「尊い命を大切に」ということで、「先祖に感謝」で終わる宗教観のことである。
これで済むなら仏教はいらない。仏教は創唱宗教という枠に属し、つまり言い出しっぺがいる宗教の中の一つである。自然宗教ではなく、つまり「自然に」ではなく、「わざわざ」仏陀の話を聞いたりしないと、とうてい出てこない発想であり、だから世界中の人がそれに属することはあり得ない特殊なものである(なので遇いがたくして遇えたことことさらに慶ぶのである)。
何億のご先祖がいるということをもって、何を語りたいのか。「命の尊さ」だそうである。大変わかりやすい。なぜなら。自然宗教だから。誰でも分かることだからである。ぼくにはよくわからないが。
これでめでたく仏教なんてわかりにくいものはいらなくなるというものだ。
(このことについての、内容的な批判については2007-6-17、2007ー2−13、2006―5―13、2006―2-11、のブログを参照)