人はいつ尊くなるのか

尊い命を大切に」ということがぼくにはよくわからない。命を惜しむということ、命が終われば私が終わり、それは「たったひとつの命だ」ということは、尊いということではない。2016/3/16のブログ《「全日本尊いいのちに感謝教」によって仏教は死んだ》のつづき。
命とは何か、命とは何を指すのか等の問いは、今は封じておいて話をする。
「無駄な命なんてない。」「生きてるだけで百点満点」。それで結構。生きてるだけなら100年満点。100点満点であり続けないのはなぜ? 行為するから? 満点の命が動くと減点になる? 尊い命が尊くない行いをしているということ、その尊くないものはどこから発生するのか。かけがえのない命がかけがえがあることばかりしてる。無駄なんてない命がやってることは無駄ばかり。やってることも含めて、無駄なんてないというほどの無駄なき世界を経験してる者はいるか。やってることを含めて満点だと言うだけの覚悟がある者はいるか。
人はいつ尊くなるのか。尊い命を尊くなくする行為が、あり得なくなったときか。つまり、死ぬとき、尊くなるのか。なるほど「死んだらほとけ」であり死ぬことが「成仏」だ。しかしやっぱり、「尊い命」とは、死にたくない、いつまでも健康で長生きしたいという生者の欲望をすり替えて正当化する虚飾であり、死ぬことが一番イヤなことのはずである。あー、やっぱりわかんない。