坊主が聖書を

葬儀の後、棺に花を入れる時、亡くなった人の奥さんが外国人だったのだが、その一族が歌を歌い出した。私は読経をやめてその光景に見入った。やがて棺を囲んで輪になり、十字を切った。
遺体を焼いた後の還骨勤行の最後、法話の時に、私は聖書の話をした。あとで聞いたが喪主は入場した私の手に聖書を見いだし驚いたとのことだ。イエスの宗教者としての第一声であるマルコ1-15の一節を、浄土真宗に翻訳した。それから永遠の光が言葉になるという浄土真宗の根本生起であり且つ親鸞の根本経験であるところのものをはなす際、ヨハネ福音書の冒頭を読んだ。日本語と英語で読み「the Word was God.はバッチリ。 the Word was with God.のところはwithぢゃなくasならいいかな」などと言いながら。
はて、これは浄土真宗キリスト教に迎合させたのか。キリスト教を使って浄土真宗の布教をしたのか。浄土真宗の土俵でキリスト教を利用したのか、キリスト教の土俵で浄土真宗を利用したのか。
どっちでもないんだけどね。ま、セクトや形でしかものが見れない人にはこういう問いにするとちょっとおもしろいかなって。
上で「キリスト教をダシにして真宗を」って書こうとして、これはおもしろいな、本質的なこと言えるたとえになりそうだなと思った。キリスト教の出汁ってどんな味かねえ、具を和風にしたりして。真宗の出汁なのに具は肉だらけだったりして。
真宗キリスト教と、それが似てるとか同じとかいうことではなく、そこでは真宗とかキリスト教とか言う必要の無いところを照らしたいだけなのです。それは直ちに、個の一身上での直接的な把握になるからです。