痛みの恵

痛いのに私は弱い。痛いのはイヤだし、避けたいし、末期ガンになって非道く痛むようなら、痛みを抜く処置だけはして欲しいとも思っている。
で、この年末だいぶ痛みにつきまとわれている。8月にもあったのだが、寝違えのような首の痛さから始まって首から肩、背中にかけて痛みやしびれが広がる。受診すると、椎間板ヘルニアの疑い、あるいは頸椎性神経根症のようである。
今回も同様のパタンなので、またなのだろうと思い、ぢき仕事納めでもあるし、来るのは正月だし、どうせ朝から酒飲んでごろごろしてるだけなので、ま、しのぐしかないかと思って受診もせずにほっといた。すると結構痛みが強くなってきて、広がって、夜も痛みで起こされるようになった。大晦日に病院行って痛み止めや神経を鈍らす薬をもらってきた。飲むんだけど、あんまり効かない。どの姿勢をしても痛い。時々、襲ってくる痛みに姿勢を変えてしのごうとしても、無駄な抵抗。そんな時は変に腹が立って、痛みに悪態をついている。くそー、いてーぞこのやろー、とかいいながらのたうっている。
ただ、痛みのいいところもある。なまじ健康な私は、いつもは痛くない生活をしている。痛みがあると、世の中には日常的に痛みを伴いながら暮らしている人がいるんだなとか、歳をとるって、治ることのないいろんな痛みと共存することなんだろうなとか思わされる。
それと、痛いと何にもできなくなる。痛いばっかりになる。身口意の三業を統一するのが解脱と言われる。印を結び、口に真言を唱え、意識を佛で満し、即身成仏する。身業を中心に口業と意業を統一する。身口意に無を透徹して見性成仏する。ナンマンダブという口業に身業も意業も溶かし込む佛が一体化してくる。等々。
普段、体はだらしなく振る舞い、意識はあれこれのことが次から次と巡り、口では黙ったりいらんことしゃべったりする。どれもこれも散漫で散乱であるのが現状であり、常態である。痛みはそれを一つにする。意識は痛みで占められ体は痛いし口ではアイタタタタ。痛みの塊。言うならば、痛み三昧である。これだけ散乱しまくってる私が統一されることはそうそうない。痛みが嫌だなんていうスキもない。選り好みするような時自分がない。この希有な状態は、痛みの恵みである。成り切っていても抜けきってないから「解脱」とは言えなくても、である。ついでに、この痛みの塊にナンマンダブを流し込めば、念仏三昧ぢゃないか。