悲しくてやりきれない

妻が録画していたテレビ番組を見せてもらって久しぶりに、身動きが取れなくなって脱力する名曲に出会った。コトリンゴの「悲しくてやりきれない」。昔からある有名な曲だから耳には何度だって入ったことはある。昨夏に上映されたアニメ映画の挿入歌らしいが、昨夏のアニメ映画といえば娘たちと「聲の形」を見に行って相当良かった。「君の名は」はそれほど良くなかった。でも「世界の片隅に」という映画は知らなかった。そして今でも見ていない。コトリンゴなどという人も知らなかった。彼女が音楽を担当していたらしいが、よくあの歌を引っ張ってきたなと思う。
サトウハチロー恐るべし。あんな詩は書けない。あの詩から50年後、ああいう深さを湛える詩はまずお目にかかれなくなった。ぼくは学生時代に学んだことが精神の真ん中にあり、我々の時代はニヒリズムということが基底をなしていると本気で思っている。その克服の道は「ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」だということも疑っていない。サトウハチローの詩に打たれたのは「ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」を思わせたからだと思う。言葉が、誇張や虚飾なくその言葉自身の持つ等身大で、ちゃんと本当につかわれている。詩や歌詞なんてガヤガヤしたうるさい物言いが多い中、本当の言葉は静かなものだと見せつけられる感じである。
コトリンゴさんもとてもいい。今回この歌に出会ってから、原曲をはじめ10人近くの「悲しくてやりきれない」を聞いたが、この歌詞の深みに一番ふさわしいのは彼女の曲だと思う。ふだん奥田民生の歌い方や声はかなり好きで「悲しくてやりきれない」も悪くないのに、彼女を前に色褪せる。変な感情も入れず、勝手な思いの行き過ぎもなく、不足も全くなく、ちょうどいい。曲も楽器も間も声もどれもがかの詩の深さを引き出す仕事を十全に果たしている。よいものというのは罪作りで、それ以外のものをどうでもよいものとなさしめる。