モクセイを身ごもる

    木犀を身ごもるまでに深く吸ふ  文挾夫佐恵
金や銀の木犀が代わる代わる咲いて、天地一杯芳香が満ち、どこに行ってもあの甘い香りに襲われるので、嗅覚空間においては足踏みをしているようなもの。そんな季節がはや何処へか行ってしまった。木犀の世界は自分の外側にあって対立するもの、そこで自分は閉じた実体。生涯出産の目に会えない男性という運命をおった者にとってこの詩は、身ごもることの喜びを教えてくれる。世界が木犀空間の時、吸うことによって、世界を孕む。木犀を身ごもった人と、木犀を身ごもっていない人、どっちの人として生きたいか。世界と通じ合う。世界がわたしに流入して私を作りかえる。世界と通じ合っている、否むしろ世界を身ごもるというこの感受。世界を孕む! 内側から浸透していくリアリティー
五歳になった娘が通園時の自転車前座席で言ったことに、その朝の気候を添付して一句。
   朝霧や晴れた日(ひい)の味がする
「花を見ると」と唐突に言い手をかざしつつ「スーッと入ってしまう」と暖簾に腕圧しのような仕草をしながら語った神秘家の先生を思い出す。古今東西神秘主義研究を生涯の仕事ととし、ということは即ち神秘主義者の開きだした世界を自ら生き、大学ではただのドイツ語の先生になりすまし、北側のうら寒い通路を好んで歩いた先生。ぐるぐるしていた修士課程時代にわたしの話を深く受けとめてくれた先生。日本人なのにヘルマン・ヘッセのような風貌で、背筋がいつもしゃんと伸びていて、どこにいてもその所在に気づくのは恰もぽっと暗い蝋燭が灯っているかのようだったから。先生の好きだった晩秋にぼくは、その先生の死を、死後一年近くもったってから、知った。
木犀空間と通じ合いながら生きることは、死んでいった先生の所在と通じ合いながら生きることと、別ではない。