広島平和記念資料館

広島平和記念資料館に行った。広島へ行く予定は数ヶ月前からあったが、はからずも、今日本でもっともホットな場所となったと言ってよいだろう。
今回初めて音声ガイドの装置を借りた。展示してある解説以上の説明があり、私のような想像力の乏しい人間には大変よかった。数時間いて、疲れ切った。途中で退出しようかと思うほど、しんどかった。

遠くなりにけり

朝、洗面所で娘に「父さんは子どもみたいなもんだよ。でかくてしわがあってひげがあるくらいで。うちはもう大人だけど」などと言われた。そんなことを言う双子の娘が中学にあがった。そうなってから、気づいたことがある。小学校との距離だ。
全く意識はしてないのに、小学校の前を通るようなとき、小学校のあり方、立ち現れ方、存在感が全く違うのだ。
全く無関心なものとして立ち現れる。存在感が、物質的な建物。そこに心はかけない。逆にそうなって今気づくのは、以前はなんだかんだ気にかけていたのだということ。今何してるのかなあと、硬い箱のなかに想像をはたらかせていたのだということ。

あしたのための声明書

ひとはすぐ忘れるから。
震災の影で、言論統制につながる法案を通す人がいるようだから。
報道規制が着実に強まり、清原つかまえて朝夕報道させる裏で物事を行おうとする人がいるようだから。
安保法案が通ったころにネット上で見た言葉を、今、思い出しておく。



あしたのための声明書

わたしたちは、忘れない。
人びとの声に耳をふさぎ、まともに答弁もせず法案を通した首相の厚顔を。
戦争に行きたくないと叫ぶ若者を「利己的」と罵った議員の無恥を。
強行採決も連休を過ぎれば忘れると言い放った官房長官の傲慢を。
わたしたちは、忘れない。
マスコミを懲らしめる、と恫喝した議員の思い上がりを。
権力に媚び、おもねるだけの報道人と言論人の醜さを。
居眠りに耽る議員たちの弛緩を。
わたしたちは、忘れない。
声を上げた若者たちの美しさを。
街頭に立ったお年寄りたちの威厳を。
内部からの告発に踏み切った人びとの勇気を。
わたしたちは、忘れない。
戦争の体験者が学生のデモに加わっていた姿を。
路上で、職場で、田んぼで、プラカードを掲げた人びとの決意を。
聞き届けられない声を、それでも上げつづけてきた人びとの苦しく切ない歴史を。
きょうは、はじまりの日。
憲法を貶めた法律を葬り去る作業のはじまり。
賛成票を投じたツケを議員たちが苦々しく噛みしめる日々のはじまり。
人の生命を軽んじ、人の尊厳を踏みにじる独裁政治の終わりのはじまり。
自由と平和への願いをさらに深く、さらに広く共有するための、あらゆる試みのはじまり。

わたしたちは、忘れない、あきらめない、屈しない。
自由と平和のための京大有志の会
あしたが まっている
わたしは わすれないぞ
ひとのはなしを ちゃんと きかないで
むりやり おかしなきまりを つくったおとなを
「けんかはいやだ」のきもちを わがままと きめつけて
ばかにしていた つめたいおとなを
ぼくは わすれないぞ
こわがらせて いばっていた おとなのかおや
こわがって ぺこぺこしていた おとなのかおを
たいせつな おはなしをしているのに
ぐうぐう ねていた おとなのかおを
わたしは わすれないよ
おかしいことは おかしいと つたえようとした
おねえさん おにいさんたちの しんけんなかおを
おばあさん おじいさんたちの おおきなこえを
だれにも あやつられない おとなたちの ゆうきを
ぼくは わすれないよ
つらいおもいでを むねにして たちあがった おとなを
きっぱり むねをはって こぶしをつきあげた おとなを
きいてもらえないかも しれないのに
ずっと こえをあげつづけた たくさんの おとなたちを
きょうからは わたしが ぼくが はじめるんだ
おとなが まちがったら わたしたちが なおす
ひとのはなしを きけるひとを ぼくたちが えらぶ
じぶんかってな おとなは わたしたちが やめさせる
「じゆう」や「へいわ」は ぼくたちの て で つかむんだ
わたしは わすれない
ぼくは わすれない
まだ なにも おわっていないから
あしたが まっているから
じゆうと へいわの ための きょうだい ゆうしの かい
Manifesto for Tomorrow
We cannot forget.
The audacity of the Prime Minister who passed the security treaty without listening to the voices of the people and hearing their answer.
The shamelessness of the Diet members who scorn the youth who shout that they do not want to go to war as “selfish.”
The arrogance of the Chief Cabinet Secretary who scoffed that the people would forget about the forced passage of the bill over the three-day weekend.
We cannot forget.
The conceit of the Diet members who threatened to imprison members of the mass media.
The ugliness of the journalists and pundits that only flatter and curry favor with authority.
The flaccid weakness of politicians that only slumber.
We cannot forget.
The beauty of the young people who have raised their voices.
The dignity of the elderly who stand up on the streets.
The courage of those who have taken on indictments.
We cannot forget.
The image of those war veterans that have joined the student protests.
The determination of all the people who hold up placards on the street, at their places of work, and in rice fields.
The painful history of those who continue to raise their voices even when they cannot be heard.
Today is a new beginning.
The beginning of the work to lay to rest a law that scorns our constitution.
The beginning of the days when politicians who cast their support in favor of the revision bite down and grimace.
The beginning of the end of monopoly politics that tramples the dignity of the people and disrespects human life.
The beginning of all kinds of experiments to truly and broadly work towards shared peace and freedom.
We cannot forget. We cannot give up. We will not give in.
Kyoto University Campaign for Freedom and Peace

友達に悩むすべての人へーー重松清「きみの友だち」を読んで!

              きみの友だち (新潮文庫)
 友達って? 「みんな」って言うけどみんなって何?誰? そんなふうに考えちゃって悩んでる人、そんな風に自覚はしてないけどそんな事態に見舞われてる人、友達関係に苦しんでる人、いじめられて苦しんでる人、こういったひとたちに手渡したい本です。すべての学校の先生にも読んでほしい。ぼくも、これらの対象者の一人として、読んでよかった。
 ぼくは「みんな」を疑っている。「みんな」はこの国では神様の位置にあり、その神様をまつる日本人という宗教を「日本教」と呼んでいる(もとは『イザヤベンダサン『日本人とユダヤ人』の言葉)。その重要な教義は「赤信号みんなで渡れば怖くない」である。
幼稚園業界の書き物にも違和感を持っているが代替案を出せていない。たとえば「友達の存在に気づくようになる」というのは、「自分中心だったこどもが周囲に意識が行くようになる」の意味です。周りにいたこどもが関わりをとおして友達になるのです。当たり前ですが。でも、園児のことを「お友だち」とよぶ奇妙な風習があるのです。みんな友だちというある種の理想の言語的慣習。
 あと、私たち親友だよねというのは気持ち悪いし嘘だと思う。親友という関係は世の中にある。それはとてもとても大切な関係だから軽々しく実現はしません。親友という言葉が消えたとき親友になります。
 こんな事を色々ぼくも思うのですが、多角的に、たくさんのパースペクティヴから友達というものを照射するこの本はたいへんリアルで優れています。小説家って人種の頭は一体どうなってるんだろうと思います。そしてその心の、「バーバー変身」のようなあり方も。
 泣いていいときに泣いてないなあと思うことがよくあった。大人の男は人前でなんて泣かないのさ、という理由と、忙しくて泣くことが許されない状況にあるという理由。泣くタイミングを逃すと、後にそれを持ってきたら泣けるというものでもない。どちらもしょうもない理由。
 一方で、泣くなんてことはどってことないことだと思ってるのも事実。ひとが「涙が出ました」という言葉で何か多くのことを伝えようとする、むしろもう決定的なことなんだと言わんばかりの語り口調をする、それには飽いている。どうってことない、だけど、いや、だからこそどんどん泣けばいいと思う。
そう思ってるせいか、ぼく自身だいぶ人前で平気で泣くようになったと思う。映画見てぼろぼろ無くし、親しい人の通夜などに行くとかっこつけずにあられもなく泣き濡れたりする。もちろん全解除というわけには行かない。あたりに人がいるのといないのとは意識しなくたってちがうものだ。そりゃいない方が心置きなく泣ける。インフルエンザにかかって隔離されたおかげで号泣することができた。
書評でも本の内容紹介でもないおしゃべりはいいかげんやめますが、娘の愛読書を読めてよかった。彼女はかなりの重松ファンです。いくつも、何度も読んでる。いい本よんでるなあ。いいものに巡り会ってるなあ。「きみの友だち」は映画化もされていて、これは映像観る前に読んどこと思ったのですが、読んだら観たくなくなりました。

「全日本尊いいのちに感謝教」によって仏教は死んだ

創唱宗教自然宗教という概念が今でも通用するのかどうかは、宗教学の研究状況を知らない私には分からないが、その装置を借りて話す。
自然宗教は、人が生きていると「自然に」出てくるもの、親を敬うとか先祖を崇拝するとかいうものを内容とするような宗教的な感情や社会的な儀礼などのことである。ムハンマドを知らなくても、仏陀なんて聞いたことなくても、社会の中で「自然に」身につき執り行われるものである。
今時で言うと、自分の親は二人でその親の親を20代前にさかのぼると何億もの親がいて、そのどの一人が欠けても自分の命はなくて、それを「いのちのつながり」とか「いのちのバトン」とかいって、「尊い命を大切に」ということで、「先祖に感謝」で終わる宗教観のことである。
これで済むなら仏教はいらない。仏教は創唱宗教という枠に属し、つまり言い出しっぺがいる宗教の中の一つである。自然宗教ではなく、つまり「自然に」ではなく、「わざわざ」仏陀の話を聞いたりしないと、とうてい出てこない発想であり、だから世界中の人がそれに属することはあり得ない特殊なものである(なので遇いがたくして遇えたことことさらに慶ぶのである)。
何億のご先祖がいるということをもって、何を語りたいのか。「命の尊さ」だそうである。大変わかりやすい。なぜなら。自然宗教だから。誰でも分かることだからである。ぼくにはよくわからないが。
これでめでたく仏教なんてわかりにくいものはいらなくなるというものだ。
(このことについての、内容的な批判については2007-6-17、2007ー2−13、2006―5―13、2006―2-11、のブログを参照)

あきれた議員舞立昇治

ある弁護士の歓迎会で、あいさつに自民党舞立昇治が立った。そこで、彼は以下のようなことを言った。「私は三権分立のうちの二権、立法と行政に関わらせてもらっている。それで、司法は苦手である。最近自民党は、安保法案などでも意見だとか何とか言われている。そこで、N弁護士にはあんまり四角四面に法律にこだわるのでなく、現実に起こってることを尊重して、現場ではいろんな事が起こるのだから、それに合わせて法律を運用するような、柔軟な弁護士になってもらいたい。」
文字通りではないが、こういう趣旨のことをいったのである。唖然とした。これが今の自民党では普通の法律感覚なのかもしれない。そして恐ろしくなった。「駐車違反だ、罰金だ。」「まあまあ、ちょっと停めただけで、すぐ動かすから、ま、いいぢゃないっスか。」
「赤信号で渡ってはいけない。」「まあまあ、そんな堅いこと言わずに。みんな渡ってるぢゃないでスか。」
こんな感覚だろうか。法律は文字であって建前にすぎない。「現実」はそんなものではない。「現実」に合うように法律なんて適当に解釈しろ。こんな感覚では、法律は有名無実化する。駐車違反どころか、憲法でさえこの態度で手を入れようとする。あらゆる法律の親玉である憲法を軽んじる態度で、首相が憲法違反の法律を作る。これでは日本の法律は頂点から崩れて行く。法治国家も国内の倫理・道徳も、支えを失う。
法律家に対して法律を遵守するなという無茶、そして非礼。そういうことを平気で言うのが舞立昇治議員という人のようである。