師匠

6月20日、ブログの更新をせうとネットをつないで見ると、「普化」という人からコメントがきてゐる。それを見た瞬間、何!と大声をあげたため、同じ部屋にゐた娘どもはおどろいてとび跳ねた。
そこには師匠辻村公一の「遷化」が告げられてゐた。
本を読んだり、調べ物をしたり、外国語を読んだり、いづれも得意ではない私が、怠け者の私が、大学院に残つて論文を書いたり大学で講師をしたりできたのは、ひとへによい先生に恵まれたことによる。すでに他界された滝川裕確先生は大学一年生の私には十分な先制パンチを与へてくれたし、西田哲学へ私を導いてくれた恩ははかりしれず、その深謝から先生がなくなつたとき胎児であつた息子に先生の名前の一字をいただいた。上田閑照先生は自分の学生でもない私の卒論を読んで下さつたことをはじめ、多くの指導をくださつた。詩と哲学と宗教の連関を浮上させることで言葉こそが重要であることをしらしめてくださつた大峯顕先生、そのすさまじい咀嚼力と軽やかさで憧れだつた大橋良介先生、神秘家の山内貞男先生、親鸞理解に関しては、梯實圓先生、岡亮二先生、石田慶和先生。これだけ立派な先生に恵まれたにもかかはらず、わが身を省みるとあまりパッとしない。不甲斐ない。それでも、これらの先生方の導きによつて現実をできるだけ現実的に見ることを鍛へられた。
そして、深い恩を受けてゐるこれらの先生方のなかにあつても、師匠と言へるのはただ一人。
辻村先生はノヴァーリスを引きながら故郷には三つあると語られたことがあつた。
一つは肉体が生まれた故郷。先生の場合「遠州浜松、でももうすつかり変はつてしまつて行く気が起こらないですね」。二つ目は魂の故郷、先生の場合「旧制第一高等学校、これはもうなくなつてしまつたですね。」そして、三つ目は「還浄」などといふやうな、宗教的な最後の落処。先生はそこできツぱりと言はれた。「それをぼくは失つてをらない」。
生きている間に死ぬことによつて行けるところが現在してゐるといふことは、生死を超えるといふことである。このところ立て続けになくなつた、荒川修作大野一雄、前者は墓のない都市を構築し、後者は「あるところに来ると生と死はひとつになる」と言ひつつ、そのあるところを身体表現で具現した。そして辻村先生。さういふ人たちのことは大変語りにくいのであるが、いづれの方も生と死の枠組みで発想してゐない。いいかへると、生と死は実体ではなく、意識の枠組みにすぎないと看破して生きるといふことである。
滝川先生がなくなられて1年後、先生の奥様から、お家の方に辻村先生が手を合わせに訪ねてこられたといふ話をうかがつた。その際先生は奥様に「滝川君はまだ死んでゐない。そのことを忘れないでほしい」と告げたといふことである。これは、死んだ人は心の中で生きてゐるといふ情緒とは別のものである。百歩ゆずつて「心の中で生きてゐる」ことだとしても、矢継ぎ早に問はねばならない。「死んだ人が生き得るやうな心とはいかなるものか」と。
先生の思ひ出はあふれ出てくる。『有と時』の全集版の訳書を頂戴しに初めて先生のお宅にお邪魔した時に、「帰れ!」と机を叩いて怒鳴られたことも鮮明に浮かんでくる。でもそんなことをここで話しても仕方ない。さらに、先生に教えられたことは筆舌に尽きるわけがないので、二、三を語るにとどめる。
極度に抽象的な思惟においても(たとえばヘーゲルのLogikのAnfangの箇所)具体的に考へること。先生は演習で、思考の空回りをゆるさないかのやうに、「例へばどういふことですか」とよく聞かれた。その問ひによつて、地に足をつけながら思索することが求められた。それとならんで、具体的な日常の事柄を鋭く抽象化する、捨象する、ということも求められた。
そのおかげでぼくは今も「結局、どういふことか」と「例えばどういふことか」を問ふクセがついてゐる。なので他者に面した時、例えば研究畑の人と話す時はつい「例えば?」と聞いてしまふし、具体性に終始しやすい幼稚園関係者には「それはどういふことか」と問うたり「もつと抽象的に考へて」と主張し続けたりしてしまつてゐる。
師匠にささげる文章も追悼文も書くことができず、いたづらに駄文を重ねてゐたのでは、「単刀直入」を実体化したような先生に申し訳が立たないので、先生の文章を引いて終へる。それは「禅に於ける〈魔境〉」という文章で先生が久松眞一に面した時の記述である。
「その時、私は、自己胸中の苦しみを、むんずと手で掴み出されて、顔面に真向から叩きつけられた、といふ感じがしました。」
まるでこれは、ある時、辻村先生に面した私の経験を叙述したかのようである。このある時の経験が私の礎石になつてゐる。