息子の成長;アクティヴラーニング

夕食後子どもたちがなにやら頭のいい人がどうのこうのと話している。お勉強できる人、成績のいい人が頭がいい人と同義であるというのは自明のことのようである。そこで、頭がいいってことと成績がいいってことが同じとは限らない、と振ってみる。
すると息子が、頭がよくても使えないとか、と応える。応用力の問題を提示したわけだ。でも、まだ自明性には届いていない。で、頭がいいってことがどういうことかが問題だと突っ込んでみる。いくつかの会話の後も前提が残された上で別の条件を出す式の答え方が続く。
なので、言った。これからはアクティヴラーニングだって。頭だけよくてもだめで、手足を使って体験的に考えることが大事になってくる、っていってるよ。そういう方向で大学を変えるって言ってるよ。(既存の枠をあえて使って)副教科(五教科以外の教科をそういうらしい)や総合学習がもっと評価が高くなるかもよと娘たちを見る(なぜ娘たちを見たかは想像にお任せします)。
しかし、息子は不満らしい。
活動的な学習って言っても、今でも副教科の方が役に立つって言うこともあるけど、主教科だって数学とかの考え方がもとで何かできたりすることもあるだろうし、役に立っているっていうのがわからないだけかもしれない。実学とかいうけど、そうそう「理論より実践」とか「論より証拠」とか、それってどうかと思う。
そんなような会話であった。そうです、あなたの父は実学どころか虚学中の虚学である哲学をやっているのです。「役に立たない」ものこそ大事と言い続けているのです。主教科のたりないところは副教科でなどという発想ではなくて、単に体験学習的に体を使って外に出てって言うんではなく、主教科を主教科として、直接性へと深めなければいけないのです。深まった知性によって体験や行為は深く意味づけられ、その証拠としてさらなる展開が出てくるのです。
今回の中教審の大学改革の話は相当コーフンしました。で、僕のいまのはやりはアクティブラーニングです。タブレットのように平面的な知、先生が予め答えをもっているような問題を解かせるQ&A社会、それの域を出ない問題解決型、そういうものをひっくり返してほんとに生きた知性、立体的で動的で経験を学力として拾い上げることができたら!
「理論」より「実践」と言ってるのではない。こんな区別を使う人はオウム真理教あんぽんたんと同じであると、ぼくはみなす。あらゆる対立の起こってくる此岸の直接経験を源泉とするということが求められているのだ。
「理論と実践」というしょうもない二項対立を粉砕する発想を、息子がもてていたので、よかった。思えば彼はアクティブラーニングをし続けてきたとも言えるし、このブログは、その記録であると言える面をもつ。京都西山で図鑑を初めて買ったのは蛇がたくさんいたから。図鑑や教科書に書いてあることが本当だと思うな、実験や本物で確かめろ、理科とか社会とかいう区別はどーでもいい、理系文系なんてこだわるな等々といわれながら、小学校時代は雑木林が友だちだった彼が、父親から天才だと思われ続けてきた彼が、気づいたら高校受験をむかえている。