悲しくてやりきれない

妻が録画していたテレビ番組を見せてもらって久しぶりに、身動きが取れなくなって脱力する名曲に出会った。コトリンゴの「悲しくてやりきれない」。昔からある有名な曲だから耳には何度だって入ったことはある。昨夏に上映されたアニメ映画の挿入歌らしいが、昨夏のアニメ映画といえば娘たちと「聲の形」を見に行って相当良かった。「君の名は」はそれほど良くなかった。でも「世界の片隅に」という映画は知らなかった。そして今でも見ていない。コトリンゴなどという人も知らなかった。彼女が音楽を担当していたらしいが、よくあの歌を引っ張ってきたなと思う。
サトウハチロー恐るべし。あんな詩は書けない。あの詩から50年後、ああいう深さを湛える詩はまずお目にかかれなくなった。ぼくは学生時代に学んだことが精神の真ん中にあり、我々の時代はニヒリズムということが基底をなしていると本気で思っている。その克服の道は「ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」だということも疑っていない。サトウハチローの詩に打たれたのは「ニヒリズムを通してのニヒリズムの克服」を思わせたからだと思う。言葉が、誇張や虚飾なくその言葉自身の持つ等身大で、ちゃんと本当につかわれている。詩や歌詞なんてガヤガヤしたうるさい物言いが多い中、本当の言葉は静かなものだと見せつけられる感じである。
コトリンゴさんもとてもいい。今回この歌に出会ってから、原曲をはじめ10人近くの「悲しくてやりきれない」を聞いたが、この歌詞の深みに一番ふさわしいのは彼女の曲だと思う。ふだん奥田民生の歌い方や声はかなり好きで「悲しくてやりきれない」も悪くないのに、彼女を前に色褪せる。変な感情も入れず、勝手な思いの行き過ぎもなく、不足も全くなく、ちょうどいい。曲も楽器も間も声もどれもがかの詩の深さを引き出す仕事を十全に果たしている。よいものというのは罪作りで、それ以外のものをどうでもよいものとなさしめる。

痛みの恵

痛いのに私は弱い。痛いのはイヤだし、避けたいし、末期ガンになって非道く痛むようなら、痛みを抜く処置だけはして欲しいとも思っている。
で、この年末だいぶ痛みにつきまとわれている。8月にもあったのだが、寝違えのような首の痛さから始まって首から肩、背中にかけて痛みやしびれが広がる。受診すると、椎間板ヘルニアの疑い、あるいは頸椎性神経根症のようである。
今回も同様のパタンなので、またなのだろうと思い、ぢき仕事納めでもあるし、来るのは正月だし、どうせ朝から酒飲んでごろごろしてるだけなので、ま、しのぐしかないかと思って受診もせずにほっといた。すると結構痛みが強くなってきて、広がって、夜も痛みで起こされるようになった。大晦日に病院行って痛み止めや神経を鈍らす薬をもらってきた。飲むんだけど、あんまり効かない。どの姿勢をしても痛い。時々、襲ってくる痛みに姿勢を変えてしのごうとしても、無駄な抵抗。そんな時は変に腹が立って、痛みに悪態をついている。くそー、いてーぞこのやろー、とかいいながらのたうっている。
ただ、痛みのいいところもある。なまじ健康な私は、いつもは痛くない生活をしている。痛みがあると、世の中には日常的に痛みを伴いながら暮らしている人がいるんだなとか、歳をとるって、治ることのないいろんな痛みと共存することなんだろうなとか思わされる。
それと、痛いと何にもできなくなる。痛いばっかりになる。身口意の三業を統一するのが解脱と言われる。印を結び、口に真言を唱え、意識を佛で満し、即身成仏する。身業を中心に口業と意業を統一する。身口意に無を透徹して見性成仏する。ナンマンダブという口業に身業も意業も溶かし込む佛が一体化してくる。等々。
普段、体はだらしなく振る舞い、意識はあれこれのことが次から次と巡り、口では黙ったりいらんことしゃべったりする。どれもこれも散漫で散乱であるのが現状であり、常態である。痛みはそれを一つにする。意識は痛みで占められ体は痛いし口ではアイタタタタ。痛みの塊。言うならば、痛み三昧である。これだけ散乱しまくってる私が統一されることはそうそうない。痛みが嫌だなんていうスキもない。選り好みするような時自分がない。この希有な状態は、痛みの恵みである。成り切っていても抜けきってないから「解脱」とは言えなくても、である。ついでに、この痛みの塊にナンマンダブを流し込めば、念仏三昧ぢゃないか。

坊主が聖書を

葬儀の後、棺に花を入れる時、亡くなった人の奥さんが外国人だったのだが、その一族が歌を歌い出した。私は読経をやめてその光景に見入った。やがて棺を囲んで輪になり、十字を切った。
遺体を焼いた後の還骨勤行の最後、法話の時に、私は聖書の話をした。あとで聞いたが喪主は入場した私の手に聖書を見いだし驚いたとのことだ。イエスの宗教者としての第一声であるマルコ1-15の一節を、浄土真宗に翻訳した。それから永遠の光が言葉になるという浄土真宗の根本生起であり且つ親鸞の根本経験であるところのものをはなす際、ヨハネ福音書の冒頭を読んだ。日本語と英語で読み「the Word was God.はバッチリ。 the Word was with God.のところはwithぢゃなくasならいいかな」などと言いながら。
はて、これは浄土真宗キリスト教に迎合させたのか。キリスト教を使って浄土真宗の布教をしたのか。浄土真宗の土俵でキリスト教を利用したのか、キリスト教の土俵で浄土真宗を利用したのか。
どっちでもないんだけどね。ま、セクトや形でしかものが見れない人にはこういう問いにするとちょっとおもしろいかなって。
上で「キリスト教をダシにして真宗を」って書こうとして、これはおもしろいな、本質的なこと言えるたとえになりそうだなと思った。キリスト教の出汁ってどんな味かねえ、具を和風にしたりして。真宗の出汁なのに具は肉だらけだったりして。
真宗キリスト教と、それが似てるとか同じとかいうことではなく、そこでは真宗とかキリスト教とか言う必要の無いところを照らしたいだけなのです。それは直ちに、個の一身上での直接的な把握になるからです。

人はいつ尊くなるのか

尊い命を大切に」ということがぼくにはよくわからない。命を惜しむということ、命が終われば私が終わり、それは「たったひとつの命だ」ということは、尊いということではない。2016/3/16のブログ《「全日本尊いいのちに感謝教」によって仏教は死んだ》のつづき。
命とは何か、命とは何を指すのか等の問いは、今は封じておいて話をする。
「無駄な命なんてない。」「生きてるだけで百点満点」。それで結構。生きてるだけなら100年満点。100点満点であり続けないのはなぜ? 行為するから? 満点の命が動くと減点になる? 尊い命が尊くない行いをしているということ、その尊くないものはどこから発生するのか。かけがえのない命がかけがえがあることばかりしてる。無駄なんてない命がやってることは無駄ばかり。やってることも含めて、無駄なんてないというほどの無駄なき世界を経験してる者はいるか。やってることを含めて満点だと言うだけの覚悟がある者はいるか。
人はいつ尊くなるのか。尊い命を尊くなくする行為が、あり得なくなったときか。つまり、死ぬとき、尊くなるのか。なるほど「死んだらほとけ」であり死ぬことが「成仏」だ。しかしやっぱり、「尊い命」とは、死にたくない、いつまでも健康で長生きしたいという生者の欲望をすり替えて正当化する虚飾であり、死ぬことが一番イヤなことのはずである。あー、やっぱりわかんない。

「吾輩は猫」の居るところ

吾輩は猫である改版 (岩波文庫) [ 夏目漱石 ]
吾輩は猫である。名前はまだない。」これほど有名な書き出しをもった小説も稀であろう。
名前がないということは、「猫」一般であって、あの猫その猫であって、この猫という特異性を持たないということである。名前がはりめぐっている人間世界に居場所がないということである。個体性がないということである。
「名前はまだない」、つまり人間世界に定位置を持たないまま、持たないが故に、人間世界を出入りし通過し洞見し語ることができたのであろう。
そして、名を持たないまま死んだ。名なき猫は名なきままに、この世に意味づけられないまま、この世から消えた。そうなりそうなところ、最後の最後で究極の名を得た。この世の中での名ではなく、永遠の層における名を。
吾輩は猫である。名前はまだない。」で始まった小説は「南無阿弥陀仏」で結ばれている。

食べるとき歴史がおとづれる

夕食に妻とパスタを食べに行った。ジェノベーゼが私は大好物である。ジェノバペーストをからめたパスタで、バジル好きだった私は初めてそのパスタを食べたときは感動した。いや、ジェノベーゼを食べてバジル好きになったのかもしれない。初めて食べたときのお店のジェノベーゼは、ジャガイモとインゲン、松の実という具で見た目は物足りないような、むしろ奇異な感じさえ受けた。しかし食べたときの驚き、満足感はたいそうなものだった。
それ以来、ぼくはパスタを食べる機会があると必ずジェノバペーストのパスタを注文するようになった。しかし、ジェノバペーストが緩く、質感が今ひとつだったり、バジルの濃さがもの足りなくて水増しされた感じのものだったり、あるいは具材に鶏肉が入っていたりバジルと調和しない野菜などが入っていたりと、あのとき食べたもとは違っていた。違っていることは当然ではあるが、比肩するものはなかった。
初体験の相手を忘れないというのは本当かどうかわからないが、初体験が基準値になるということはある。そして基準値が上限値になってしまうこともあるのであろう。
妻と来たのは初めて食べたお店であった。そしてまったくかわらない味だったのである。妻が、「17年前とおんなじ」と言った。彼女は17年前初めての妊娠で苛立ち、不安定、苦悩のただ中にいた。今考えればそんなことは、というようなことであっても、当時は受け止められなかった。彼女はこの17年に4人の子どもを出産し、育て、今も葛藤中である。「いろいろあったね」というともなく、僕の口からもれた。こんなに色々あって驚くことに17年も経ってしまっているのにこのパスタは変わらずに居続けたのだ。二人でぼろぼろ泣いてしまった。ごちそうを前にといいながら泣きながら笑ってジェノベーゼを食べた。食べ物にこんな風に揺さぶられる経験は初めてだった。
このお店はトラモント(京都寺町二条)のことである。

子どもの言葉;何とはなく抱く思い・でも根本的

みやざきひろかず作「おぼうさんとろくろくび」という紙芝居を妻が買って来て読んでくれた。それを聞いた双子の娘が、絵がみやざきさんぽくないと言う。ワニくんやレベルフォーがみやざきさんっぽいのだという。
ワニくんのおおきなあし (ニッサン絵本大賞作家集)

ワニくんのおおきなあし (ニッサン絵本大賞作家集)


みやざきさんといえば! と言うことで「ちきゅうになった少年」をぼくが読んだ。子どもたちにも、授業でも何度も何度も読んだこの本を、読んだ。久しぶりに声に出した。実にいい本だ。「なる」ということの本質を、何かに「なる」ということはその何か以上のものが開かれてくることだということを、描き切っている。

最後の方で、主人公の少年が「なる」ところを描いたクライマクスで、二人とも真顔で聞き入っていた。読む方もちょっと静かなトランス状態のようになる。読み終わると、嘆息とともに「すごい」、「お・・モ・・シロイ・・・」
直後に、床に就いた娘の話を聞く。
「地球って聞くと、何て言っていいか・・・・・地球って回ってるじゃん?そこで(私たちは)なんで止まってられるのかとか、地球の反対にいる人は落ちないのかとか。・・・・・何で 人間いるの? 何のために生まれた?ムダぢゃない?」
こんな根本の問いを、それが出てくるような思いを、この娘が抱いているなんて、焼き鳥を「かんざしのお肉」(2014−9ー12のブログ参照)と言うような娘が、抱いたことがあるなんて、吃驚だった。
驚きつつ、彼女の心情を想像しつつ、最後の問いへの答えをどうするか瞬時に考え、三呼吸おいて応えた。「ムダだよ」という否定面から応えるのは、望みを抱くべき中学生には、やめて、肯定面から応えた。
「世界が、こと(娘の名)を通して世界を見るため。世界がことの目を通して見てる。世界が人間において世界自身を知るんだ。そうやって世界が豊かになっていく。」